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2023/07/09
施設長のつぶやき~過度な「自立」支援はノーマライゼーションの否定②~
アニメ以外の久しぶりの邦画
観て参りました。
邦画は本当に久しぶり「いぬやしき」「カメラを止めるな」あたり依頼でしょうか。
内容はまさに笑いあり涙ありの内容で、とても良かったです。
当日朝までチケットを事前予約していたのが、私を含め3名だけだったので
何か凄く不安でしたが、入ってみると半分以上の席が埋まっており一安心。
一つ残念だったのが、パンフレット以外グッズが何も売っていなかったこと…
これでシックスティ・ファイブ、ブラック・デーモンに続き3作品連続でグッズなしです…
もちろん、映画の価値がグッズで決まる訳ではありませんがどこか寂しい思いです。
そして7月7日に
布袋寅泰最新アルバム「GUITARHYTHMⅦ」の発売が発表されました!
「Ⅶ」だけに7月7日に合わせてきましたね。
布袋ファンにとってGUITARHYTHMはやはり別格。
「Ⅳ」で一度終了し15年後に「Ⅴ」さらに10年後に「Ⅵ」
今回はその「Ⅵ」から4年での復活です。
だんだんスパンが短くなってきているなぁ。
今からとても楽しみです。
それでは前回の続きです。
少し具体的に介護現場である我々の日々の業務、排泄支援について考えてみます。
排泄支援はトイレ誘導が基本です。オムツやパットは便器ではありません。
人が排泄する時にトイレに行くのは当然です。
本人が望んでいる場合は危険性などを検証したうえで
可能な限りトイレ誘導をするのが当然でしょう。
トイレ誘導するという事は本人の自尊心を護り
自立した日常生活を送るうえでは大切なファクターとは思います。
しかしそうでない場合はどうでしょうか。
トイレ誘導するたびに苦痛に顔を歪め、痛みや恐怖心から悲鳴を上げる方
もはや立位も満足に取れずフラフラな状態の方を数人がかりでトイレに座らす
このような介助の仕方に問題はないのでしょうか。
もはや自立支援等ではなくトイレに連れて行くこと自体が目標になっているようにさえみえ
「あの人はトイレ誘導出来る素晴らしい介護職員だ。」という声さえ聞こえて来ます。
その人が素晴らしい介護職員かどうかは置いといて
このような状態の場合、トイレ誘導を中止し
安全、安楽にベッド上でパット、オムツ交換する方法に変更しても
私は問題ないと思っています。
もちろん、一人の勝手な考えでトイレ誘導を中止するのではなく
カンファレンスを開催し、多職種でしっかり検証したうえ
トイレ誘導ではなくパット、オムツ交換という支援方法に変更すれば
問題ないどころか正しい支援と考えています。
このような話をすると「自立支援が出来ていない。」「寝たきり老人を作ろうとしている。」
「職員が楽をしたいだけだ。」という批判がきます。
その意見を真っ向から否定はしません。
そのような側面があるのも事実でしょう。
まして職員が楽をしたいがためにトイレ誘導をしないなどは言語道断です。
しかしここでノーマライゼーションの理念を思い出してほしいのです。
ノーマライゼーションはどのような状態であっても普通の生活を送れるという考え方です。
苦痛に顔を歪める、悲鳴を上げるような状態が普通の生活といえるでしょうか。
ノーマライゼーションはその語呂から
「人をノーマルにする」という意味に勘違いする人がいます。
しかしそうではありません。
あくまで普通(ノーマル)な生活を送るという意味です。
確かにトイレに行かないという生活は一見普通の生活には見えないかもしれません。
しかしそれでも苦痛に顔を歪めたり、悲鳴をあげたりする生活よりは
ベッド上での安全、安楽な介助の方が普通の生活といえるのではないでしょうか。
一生懸命な介護職員の気持ちは理解します。
しかしそのような過度な自立支援の考え方を利用者に押し付ける事は
まさにノーマライゼーションの否定になります。
介護職員の一生懸命さ、熱意は大切でしょう。
しかしその一生懸命さや熱意が間違った方向にシフトすると平気で人権侵害が起こります。
虐待問題を考えてみて下さい。
意図的に殴る蹴る暴言を吐く等は話になりません。
しかし虐待の中には意図してないものを多くあります。
その多くは熱心さからくる過度な要望です。
もはや歩ける状態でもないのに叱咤し高齢者を奮い立たせようとする
結果暴言になり高齢者を畏怖させる。このような事が如何に多いか。
自分の行動が過度な「自立支援」になっていない迷った時は
ぜひこのノーマライゼーションの理念を思い返してみて下さい。
きっと新たな支援方法が見えてくると思います。