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2023/02/01
施設長のつぶやき~誕生日SP・The Legend of G-音鬼・布袋寅泰-~
皆さん、こんにちは。
本日は布袋寅泰さんの誕生日という事で
The Legend of G-音鬼・布袋寅泰-をお送りします。
前回のThe Legend of BOØWYの時と同じく自分の記憶を頼りに書きましたので
正確な内容ではありません。
またいつも通り推測、妄想、思い込み等も入ってますので
予めご了承下さい。
「まだまだ俺達、伝説になんかなんねーぞ!!」
それから数十年後、彼らは伝説のロックバンドとして多くの人に語り継がれていく…
伝説として語られるにはそれなりの理由が存在する。
解散後、4人がそれぞれの音楽活動にて伝説の足跡を作って来た事は言うまでもない。
布袋は解散の虚無感から単身渡英。一時は音楽と向き合う事から離れ引退も頭を過る。
しかし手にしたギターからは様々なメロディが紡ぎ出される。
GUITAR+RHYTHM。そこにはISM(主義)の意味も含まれるこの作品は
布袋の生涯を彩る事となる。
こうして発表されたソロファーストアルバム「GUITARHYTHM」。
BOØWYのようなメロディアスなメロディはない。ギターとコンピュータの融合。
スピード感と特徴的なリフレイン、独自のメロディ、そしてパンクの要素を含み
布袋いわく「セックス・ピストルズのギタリストと
ジグ・ジグ・スパトニックのリズム隊をバックに、エディ・コクランが
ビートルズの歌を赤いスーツを着て歌うということ」。
海外デビューも視野に全英語詞のこのアルバムをひっさげ行われたGUITARHYTHM LIVE。
ステージの中央に立つことに違和感を覚える布袋をよそに
たった2公演のこのライブはBOØWY→布袋寅泰を決定づける大成功を収める。
しかし日本での成功の裏で英国デビューとなる
シングル「DANCING WITH THE MOONLIGHT」が僅か数か月で
杯盤になるという辛酸を経験する。
しばらく日本での活動を拠点とし、吉川晃司との2年間のCOMPLEXの活動を経て
再びソロとなった布袋は先行シングル「BEAT EMOTION」を発表。
その後、富士急ハイランド「GUITARHYTHM REPRISE」というライブを行う。
あいにくの雨模様であったがその雨がまるで神が降臨したような幻想的な雰囲気を醸しだす。
音楽紙には「天をも味方する復活劇」と称された。
このライブ後、待望の新作アルバム「GUITARHYTHMⅡ」を発表。
2枚組のこの大作は、英語詞から日本語詞へ、機能美から肉体美と称され
ソロミュージシャンとしての地位を確固たるものとする。
この後、GUITARHYTHMはⅢ、Ⅳと立て続けに発表される。
同時期、ジーザスジョーンズとの共演
そして94年には奈良県東大寺で行われた音楽フェス「AONIYOSHI」に出演
そこで巨匠マイケル・ケイメンとの運命的な出会いを果たす。
この頃の布袋は自身のソロ活動であるGUITARHYTHMワークにも息苦しさを感じる事となる。
そこで布袋はGUITARHYTHMⅣ、そしてシングルPOISONで
GUITARHYTHMを終了する事を発表する。
シングルPOISONはこれまでにない大ヒット記録。
GUITARHYTHMの曲を網羅したベストアルバム
「GUITARHYTHM FOREVER VOL.1」「GUITARHYTHM FOREVER VOL.2」も発表
こちらも大ヒットとなる。
この2枚のアルバムを中心にライブ「SERIOUS! CLIMAX」を開催。
ここで6年間のGUITARHYTHMに終止符が打たれる事となる。
BOØWYの活動期間と一致するこの6年という期間に運命を感じずにはいられない。
シングル、アルバムのヒット、そしてメディア露出の回数が劇的に増えていく事も相まって
お茶の間レベルで布袋寅泰の名が浸透していく事となる。
95年AFTER GUITARHYTHM第一弾シングル「スリル」続く「ラスト・シーン」がメガヒット
さらにそれら2曲を要するアルバム「King & Queen」が
自身最高売り上げを誇る大ヒットとなる。
「King & Queen TOUR」終了後、もう一つのライブが開催される。
「SPACE COWBOY TOUR」と題されたこのライブでは
発表されたばかりのシングル「CIRCUS」を中心に
「King & Queen」の曲にこれまでの代表曲を交えた内容であるが、特筆すべきはその演出だ。
Rock ‘n’ roll CIRCUSをテーマに、ステージ(向かって)右には
液晶モニターを積み上げた巨大なピラミッド、左には空中ブランコ
中央には時計を模した証明などこれまでのライブに比べ格段に派手な内容になっている。
さらにSPACE COWBOYというDIRTY STARがRock ‘n’ roll CIRCUSを成功させ
伝説の勇者CAPTAIN ROCKに成るという物語を描いた
ミュージカルとライブを融合させたような演出となっており
布袋はスペース・カウボウイ役、その他のメンバーもスペース・ポリス
スペース・スパイ、スペース・ジェロニモ等の役割を演じている。
これまでも音楽と映像の融合作品を創作してきた布袋ならではライブと言えよう。
96年、布袋はアトランタオリンピックの閉会式に出演するという快挙を成し遂げる。
AONIYOSHIで出会ったマイケル・ケイメンからのオファーであったが
当時、出演といってもさりげなく出演するだけかとの予想もあった。
しかし本番ではマイケル・ケイメンが指揮する隣で堂々とギターをかき鳴らす布袋の姿に
ファンのみならず日本中が度肝を抜かれた。また全世界にHOTEIのプレイを
印象付けた事は言うまでもない。
さらに同年、布袋にとって憧れの存在であった、デビット・ボウイとの共演を果たす。
もともとはデビット・ボウイの日本公演の前座を担当する事となっていたが
布袋自身がデビット・ボウイの宿泊先の部屋に手紙を忍ばせた事で共演が実演。
デビット・ボウイの横でギターを弾くという夢が叶った瞬間であった。
97年は布袋にとって初挑戦の年となる。それはこの頃、布袋のPVを作成していた
中野裕之氏が監督を務める映画「SFサムライ・フィクション」への主演出演だ。
映画全体をモノクロで仕上げ、映画音楽は当然布袋が監督する。
まさに映像作品と音楽の融合であり、映画感はあまりない特異な作品となる。
主題歌の「SAVE ME」はシングル「CHANGE YOUR SELF」のCWであり
その「CHANGE YOUR SELF」のPVも当然中野氏が制作
そのPVもモノクロで仕上げる等、随所にSFとリンクされていた。
このような内容からファンからは概ね好評であった。
同年冬にはスティーブ・ヴァイ監修の世界11人のギタリストが集まる
クリスマス・アルバム「メリー・アックスマス」に日本人唯一参加。
ジョンレノンの名曲「Happy Xmas (War Is Over)を演奏する。
98年は約2年ぶりとなるオリジナルアルバム「SUPER SONIC GENERATION」を発表。
ロカビリーテイストでポップ感溢れる作品だった前作「King & Queen」から一変
デジロックを前面に押し出した非常にラディカルな挑戦的、実験的あるアルバムとなった。
先行シングルはなし、ツアーではライブ定番だったC’mon Everybodyもなしという
シュールな内容であったが、ファンはその孤高さに酔いしれ
今現在でも最高傑作に押す声も大きい名アルバムとなる。
さらにこの「SUPER SONIC GENERATION」のリミックス版がドイツのヒットチャートで
8位にランクインされる。
また同年、マイケル・ケイメンがエリック・クラプトンとコラボする予定だった作品が
クラプトンのスケジュールがどうしても合わないという理由で何と代役に布袋が選ばれる。
世界3大ギタリストの一角の代役とあって
布袋をして「むしろ代役の方が嬉しい」と言わしめた。
アトランタオリンピック閉会式出演を始め、数々の世界的アーティストとの共演
さらにリミックス版とはいえ、自身名義のアルバムが海外でランクインするなど
ソロデビュー後辛酸を舐めた海外での活動が現実味を増し
「世界のHOTEI」が視野に入ってくるようになる。
ここで布袋は海外での活動が活発化する事を前提に
「日本のファンにお礼をする。」「日本のファンのために曲を作る」と表明。
99年にシングル「バンビーナ」を発表。
このバンビーナは以降、POISON、スリルと並ぶ布袋のシングル3巨頭となっていく。
続くシングル「NOBODY IS PERFECT(中居正広氏主演「グッドニュース主題歌」)を含む
自身初のSINGLE‘S BEST「GREATEST HITS 1990-1999」を発表。
100万枚を超える大ヒットを記録する。
このアルバムのツアー「HOTEI GREATEST HITS TOUR TONIGHT I‘M YOURS」は
全公演即日完売するほどの大盛況。各会場「布袋ファン」で埋め尽くされる壮大なものとなった。
しかしこのツアーがひとつの分岐点となっていく…
この間、布袋はデンマークのロスキルド・フェスティバルに参加するなど
海外での活動を行ないながら、日本でも精力的に活動を続ける。
2000年には前作のデジロックから一転、壮大なブラスロックに挑戦。
先行シングル「VAMPIRE」「LOVE JUNKIE」を含むアルバム「FETISH」を発表する。
同年、布袋は新たな挑戦として阪本順治監督の映画「新・仁義なき戦い」に
豊川悦司氏と共に主演出演する。
布袋はオファーを受けた際に当初やくざ映画という事もあり断ろうとしたが
その内容(やくざ映画にしてやくざ批判)を見て引き受ける事となる。
音楽監督及び映画内の楽曲は当然布袋が務め
「新・仁義なき戦い/そしてその映画音楽」というサウンドトラックを発表。
まさに2000年は「FETISH」「新・仁義なき戦い/そしてその映画音楽」の
2作に映画出演というこれまでにないほどの精力的な活動を行なった年だった。
年末から年始にかけてこの2作品をひっさげたツアー
「HOTEI ROCK THE FUTURE 2000-2001」を開催する。
しかしそのツアーではこれまでになく空席が目立つ。
理由の一つとして前作はSINGLE‘S BESTであった事から
本来布袋のライブに参戦しない人たちも大勢参加しており
本作ではそのような人たちは当然のように布袋から離れて行った。
また前映画作品である「SF」は受け入れたファンたちも
ゴリゴリの映画主演である「新・仁義なき戦い」には否定的な声もあった。
さらに前年、今井美樹氏と再婚したという本来ミュージシャンを評価するには
関係ない事でのバッシングもあった。
事実この頃、閉鎖されるファンサイトもあったり
ファンサイトの掲示板でも辛辣な意見が目立っていた。
このような状況下で比較的チケットを購入しやすくなった事で
ファンの中でも複数枚購入し一番良い席でライブ観賞する者まで現れた結果
本当に参戦したいファンが会場に入れず空席が目立つという事態に陥った。
布袋はこれまで「ファンクラブなど軟弱なものはいらない」と公言してきた。
しかしこの状況に怒りを覚えた布袋は
「ついて来れる奴だけついてこいを撤回する。ついて来たい奴だけついてこい」と宣言。
オフィシャルファンクラブ「BEAT CRAZY」を立ち上げる。
ちょうど当時、インターネットが普及し出した頃であり、
ネットを駆使した今までにないファンクラブの立ち上げだった。
このような事情から布袋いわく
「ファンクラブではない。ネットワークメンバーだ」と言っていたのは
「ファンクラブなど軟弱なものはいらない」と言っていた手前のご愛嬌であろう。
(ちなみに現在は普通にファンクラブと言っている)。
こうして02年に先行シングル「ロシアンルーレット」を含む
アルバム「SCORPIO RISING」を発表。
タイトルチューンの「SCORPIO RISING」では
「ついて来たい奴だけついてこい 最高の夢をみせてやるぜ」と高らかに歌い上げている。
また本アルバムにはサビで「BEAT CRAZY」と連呼する「SHOCK TREATMENT」も収録。
ついてきてくれるファンへの熱い思いが詰まっていると言えよう。
そんな思いを胸についに
「HOTEI ROCK THE FUTURE 2002 SCORPIO RISING TOUR」が開始となる直前
またも布袋に試練が与えられる。
妻・今井美樹の父の通夜の席で布袋は転倒、頭部を強打する。
その後普通に飛行機に乗り東京へ戻るも意識不明となり緊急搬送、頭がい骨骨折の重傷だった。
一時ギターが弾けないぐらいの状態に見舞われるが、賢明なリハビリの結果見事復活。
延期となっていた全国ツアーを敢行、述べ10万人を動員する事となった。
まさについていきたい奴のみがついていった結果であり
布袋とファンの間に新たな絆が生まれた瞬間であった。
03年は思いもよらない出会いが布袋を待ち受ける。
「新・仁義なき戦い」を観た鬼才・クエンティン・タランティーノが
自身監督の映画「キル・ビル」で新・仁義なき戦いのテーマを使いたいと発案する。
布袋は「新しい曲を書き下ろさせて」と言うが「この曲ではなくてはダメだ」と言われ
布袋も陵諾する。
英名「Battle Without Honor or Humanity」として世界中で大ヒットする事となり
自身の代表曲ともなる。
一部のファンにバッシングされた映画出演が
「世界のHOTEI」に一役買ったのは皮肉なところか。
今でも海外でこの曲を演奏すると観客から「最高だよ」と褒められるが
その後に「キル・ビルの‘カバーが‘」と言われるそうである。
自分の曲をカバーと言われるミュージシャンも布袋ぐらいであろう。
以後、オリジナルアルバム
03年「DOBERMAN」05年「MONSTER DRIVE」07年「AMBIVALENT」と
1年半から2年のスパンで新作を発表。
また05年には翌年に控えた自身の25周年を記念して
ベストアルバム「ALL TIME SUPER BEST 」も発表する。
しかしベストといっても本作はBOØWYやCOMPLEXのセルフカバー
自身のヒットシングルをアンプラグド、オーケストラ、ジャズ等で大幅にアレンジした楽曲
さらに書き下ろしの新曲「SONG FOR US」が収録されるなど
限りなくオリジナルアルバムに近い内容になっている。
「MONSTER DRIVE」は本来ブライアン・セッツァーとバンドを組む予定で
そのために作成された楽曲であったが、ブライアンとのスケジュールが合わず立ち消えたため
布袋のオリジナルアルバムとなった。
ブライアントとはその後06年にシングル「BACK STREETS OF TOKYO」で共演
「BACK STREETS OF TOKYO」を含むアルバム「SOUL SESSIONS」では
ブライアンのみではなくCharら日本の著名アーティストとコラボする。
09年には15年ぶりの復活となる「GUITARHYTHMⅤ」の制作を発表
ファンを驚かせる。そのツアーでは前半GUITARHYTHMⅤの楽曲を演奏し
後半は巨大モニターの映像と共にⅣ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰの楽曲を順にタイムトラベルのように演奏
ファン喝さいのステージとなった。
同年末、自身が愛してやまない洋楽の名曲を演奏したカバーアルバム
「MODERN TIMES ROCK’N'ROLL」を発表。
翌年行われたツアー「HOTEI 2010 / ROCK A GO! GO! TOUR」では
全国ツアーであるにも関わらずライブハウス公演という珍しい形で行われた。
11年、ソロデビュー30周年を迎えた布袋は「創世記」「威風堂々」「一期一会」という
3つのライブを開催。
威風堂々ではGLAYのTERUが出演、布袋のギターにTERUの歌唱でBOØWYの楽曲を演奏。
TERUを仮想ヒムロックに見立てた事は想像に難くない。
「SUPER SONIC GENERATION」収録の「FUCK THE FAKE STAR」という楽曲の
「マイクさばきも身のこなしもどこかの誰かとそっくりだぜ」という歌詞は
当時GLAYの事ではないかと噂されていただけに
(ただし本人は「誰がFAKE STARとかいう事ではなく
俺はFAKE STARにはならないぜということ」と発言しきっぱり否定している)
TERU登場が発表された時にはファンは騒然となった。
30周年記念は翌12年の「最終章” WE ARE DREAMER」で終了する。
同年布袋は海外での活動を中心とすべくロンドンへ移住する。
一家で移住する事を家族に反す布袋に対し娘に大反対され
「行くならパパ一人で行けばいい」と言われるも、結局は一家で移住する事となる。
13年、丸4年ぶりのオリジナルアルバム「COME RAIN COME SHINE」を発表。
そして14年布袋に驚きのオファーが下る。
何と世界№1ロックバンドとも称されるあのローリング・ストーンズから
直々に日本公演での共演依頼があったのだ。
布袋自身驚きと共に歓喜し、すぐにロンドンから東京に戻る。
たった1曲とはいえ、無事共演を果たした。
同年、海外活動を本格化させるため、ギターインストアルバム「New Beginnings」を発表。
翌15年には「New Beginnings」の楽曲をアレンジ、新曲を追加した「STRANGERS」を
日本、欧州同時に発売。世界各国で単独ライブを行なっていく事となる。
海外での活動に関して布袋は「まだまだ興行的に成功と言える段階まで来てはいない」と
本格的に海外で活動する事の難しさを述べている。
16年、デビュー35周年を迎えた布袋は自身の原点である「8BEAT」をメインテーマにする。
発売されたシングルは「8BEATのシルエット」。
自身が夢を追い続けてきた、そしてこれからも追い続ける事を宣言する歌詞を歌い上げる。
またベストアルバム「51 Emotions -the best for the future-」を発表。
3枚組51一曲の豪華内容でそれぞれ「BEAT」「HEART」「DREAM」とテーマ分けされている。
ライブは8BEATにちなんでBEAT1からBEAT8まで8つの異なったライブを行う事が発表された。
中でも「ギタリズム伝説’88〜 ソロデビュー再現GIGS」は
まさにソロデビューライブ「GUITARHYTHM LIVE」の再現がテーマであり
原点回帰の意味が込められた。
しかし布袋は
「ただ再現するだけではない。進化したGUITARHYTHM。いわばGUITARHYTHMの完全化」
と発言。
GUITARHYTHM発表から20以上経過してもなお色あせないGUITARHYTHMの魅力を
発揮させるとともに、当時では出来なかった事を体現する見事内容となった。
51emotionsの発表を受け行われた「Maximum Emotion Tour ~The Best for the Future~」は
何と一曲目から「POISON」を持ってきてファンの度肝を抜いた
。BOØWY、COMPLEX、自身の代表曲を惜しみなく披露。
アルバムと合わせまさに布袋の入門書と言って良い内容となっている。
35周年最後のBEAT8「Climax Emotions」では35周年だから35曲やると宣言。
50代も後半に差し掛かった布袋が4時間を超えるライブを敢行。
最後の曲まで決して衰えないパフォーマンスに
「俺が死ぬのはステージの上だ」と常に言っている布袋の言葉に現実味が帯びる。
最終公演の神戸ワールド記念ホールでは
クリスマスである12月25日に行われた事から特別に
「MERRY CHRISTMAS, LONELY HEART」が追加された。
布袋をして「35曲といっていたけど36曲になって申し訳ない」と言われた事は
ファンにとっては嬉しいサプライズとなった。
その後も継続的に活動しに
17年アルバム「Paradox」19年に「GUITARHYTHMⅥ」を発表。
「Paradox」は布袋自身最高傑作と言い
実際にこれからもずっと演奏され続けると思われる名曲「ヒトコト」が収録されている。
GUITARHYTHMⅥでは松井恒松、高橋まことと久々の共演。
ツアーファイナルの神戸ワールド記念ホールでも共演するなど話題をさらう。
ちなみに「GUITARHYTHMⅥ」制作時、あの「Paradoxの後だからなぁ」と
その難しさやプレッシャーを語っている。
布袋にとって如何に「Paradox」が完成されたアルバムだったがわかる発言である。
20年は新型コロナウイルスの影響でほぼ何も活動が出来ない年だった。
21年ついにプロデビュー40周年を迎える。
1月に2夜連続武道館で
「HOTEI 40th ANNIVERSARY Live “Message from Budokan” 〜とどけ。」を
開催予定も新型コロナウイルスの感染拡大が収まらず有観客ライブは中止となり
自身初の無観客ライブ配信のみとなる。
しかし9月には新型コロナウイルスへの対応もわかりだし
ソーシャルディスタンスの確保(両隣が空席)、マスク着用、大声での歌唱
声援は禁止という厳格なルールの元とはいえ、有観客ライブが再開。
念願の有観客での40周年記念ライブ
「HOTEI 40th Anniversary 〜Double Fantasy Tour〜 “BLACK or WHITE ?”」を開催。
しかし21年一番インパクトを与えたのは
東京2020パラリンピック開会式への出演ではないだろうか。
96年のアトランタオリンピックでは事前に布袋が出演する事が発表されていたが
東京2020パラリンピックでは正式な発表はなく、デコトラが入場
開いた瞬間に布袋が登場、日本中の度肝を抜いた事は記憶に新しい。
全盲のギタリスト・田川ヒロアキ氏らと共演
Battle Without Honor or Humanityを熱演する。
ネットニュースやSNSでも異常な盛り上がりを見せる。
22年2月1日還暦を迎えた布袋は同日アルバム「Still Dreamin’」を発表。
その名の通り、BOØWYの名曲「Dreamin’」の意思を受け継ぐ作品である。
同月4日より2週間限定で同名ドキュメンタリー映画
「Still Dreamin’―布袋寅泰 情熱と栄光のギタリズム―」を2週間限定で上映。
実際のドキュメンタリー映像に物語を組み合わせ
自身のソロキャリアを振り返る内容となっていた。
そして「HOTEI the LIVE 2022 “Still Dreamin’ Tour”」と年末には2夜限定
「HOTEI the LIVE 2022 Rock’n Roll Circus “40th Anniversary Final Party”」を開催
40周年記念を2年にわたって演奏しきる
まさにコロナで出来なかったフラストレーションを爆発させた内容となった。
還暦を迎え国内外かかわらずその活動が留まる事はない布袋。
常に我々の想像の斜め上を行く彼今後もどんな驚きをみせてくれるのか。興味は尽きない。
どうやら彼はまだまだ伝説にはならないつもりのようだ。
〇あとがき 人生の一部と化した布袋寅泰
私が布袋さんを始めて聴いたのは14歳の時です。
ちょうどさらば青春の光やサレンダー等が発売され
少しずつ布袋さんがお茶の間に浸透し出した頃でした。
姉が同級生から借りて来たPOISON
そしてGUITARHYTHM FOREVER VOL.1、 VOL.2等を聴き
「日本にこんなカッコいいミュージシャンがいるのか」と一発でファンになりました。
(当時は何故かRockは洋楽じゃないとという風潮が学校中にありましたので…)。
シングルPOISONだけではなくMerry-go-round、さよならアンディ・ウォーホル等
アルバムの曲も非常にインパクトがありました。
もしPOISONしか聴いていなければ、1枚のシングルを気に入っただけで
ここまでのファンにはなっていなかったかもしれません。
あれから28年変わらずずっとファンでい続けています。
14歳の当時は一生のファンになるなんて思ってもみませんでした。
今と違い、当時の中学生・高校生に布袋さんを知らないものはいなく
アルバムの曲でもカラオケで通用するほどでした。
ファンじゃなくても「布袋好き」と言う人たちも多かったですが
果たしてそのうち何人の方が今でも布袋さんを聴いているんでしょうか…
今回の記事で布袋さんの全部を網羅する事は不可能です(というか全部なんか知らないし)。
ですから自分の思い出の中で印象に残っている事
オリジナルアルバム、ライブを中心に書きました。
ライブと言えば中学・高校の時はお金もなくチケットの取り方もわからなかったため
ライブに行きたくても行く事が出来ませんでした。
ライブビデオが発売されると発表されるやいなやすぐに予約し
バイトの数を増やしてお金をためて購入
テープが擦り切れるほど何度も観ていた事を今でもハッキリ覚えています。
そうこうしているうちに大学生となり時間もお金もある程度確保出来るようになった事から
「絶対にライブに行ってやる」と強く思っていました。
当時はまだインターネットが普及し出した程度でしたから
チケット購入は電話か窓口購入です。
発売日に天王寺のチケットぴあにいき窓口でチケットを申し込みます。
初めてチケットを購入出来た時は飛び上がるほど嬉しかったです。
(ちなみに窓口で売り切れとなれば運が良ければその場で「追加公演決定」という
張り紙が出されその場で書かれている電話番号に電話しチケットを取るのです)。
という事で初めて行ったライブは
「HOTEI GREATEST HITS TOUR TONIGHT I‘M YOURS」でした。
本文中にある通り、このライブには布袋ファン以外の方々も大勢参戦されていたようです。
確かに今思うと布袋ファンのノリとは違う方が多数おられたようにも思います。
しかし当時は嬉しさ、興奮がそのような思いを数倍、数十倍、数百倍…上回っていました。
以後、インターネットが普及しネット上でチケット購入が出来るようになり
ライブに参戦出来る事が当たり前となっていきました。
ファンクラブ「BEAT CRAZY」立ち上げ後
まだ布袋さんが「ファンクラブではない、ネットワークメンバーだ」と言い張っていた頃
ライブ会場では誘導係の人が「ファンクラブの方はこちらへ~」と
言っていたのが妙に可笑しかった事を覚えています。
以前も書きましたが、Windows98が発売された1998年から
2000年のDoCoMoのiモードの普及で一気に情報量が多くなりました。
iモードは今のスマホに比べれば格段に情報量は落ちますが
それでもそれまでよりは飛躍的に情報量が多くなりました。
高校3年生で大学受験勉強の時は辞書や現代用語の基礎知識と言った本を有効活用
していました(そうするしかありませんでした)が
まさかそれからわずか2、3年でパソコンを叩けば何でも情報が入る時代になる等
誰が想像した事でしょう。
しかし情報が少なかったからこそ、必死で情報を集めた結果
結果的に思い入れが強くなっているように思います。
ですから本文も半分近くが私が14歳から20歳過ぎの時のものになっています。
まぁ青春時代の思い出とも被っているからでしょうが。
何回もファンと自分で書いておいていうのも何ですが
今更ファンという表現も不思議なような気がします。
14歳から28年間ずっと聴き続けている布袋寅泰。
「POISON」など一体もう何回聴いているんでしょうか。
脳内にiPodのような機能があれば知りたいです。
もはや布袋さんは自分の人生の一部であり切っても切れないものとなっています。
中学の時、先に布袋さんを聴いていた友達が
「僕はもう布袋さんは卒業した。田原はいつまで聴くの?」と訊ねられた事があります。
当時は「さぁ…」と答えましたが、今なら間違いなく「一生だよ」と答えるでしょう。
チープな表現をすれば布袋さんに勇気を貰った、布袋さんを聴いて元気になった等
センチメンタルな事もありました。
事実、失恋や大学受験に落ちた時などはガンガン布袋さんを聴いていましたから。
しかしそのような事以前に、普通に毎日の生活の中に布袋さんの音楽があります。
もちろん聴かない日もありますが、逆に言えば聴かない日の方が少ないのです。
以前、ファンクラブサイト「BEAT CRAZY」では
「Q to HOTEI」というコーナーがありました。
これは布袋さんに質問を送ると布袋さんが掲示板で答えてくれるというものでした。
(もちろん、全ての質問に答えてくれる訳ではありません)。
就職したての頃、私は布袋さんに
「僕は高齢者施設でソーシャルワーカーの仕事をしています。
しかしどうしても介護職員や看護職員と意見が合わない事があります。
どうしたら良いでしょうか」と質問を送ってみました。
すると布袋さんから返信があり
「月並みな言い方だけど、腹を割って話すのが一番だと思う。
心のチューニングを合わせるんだ。君のやっている仕事は素晴らしい仕事だ。
誇りを持って前向きに頑張ってほしい。」と。
まさか返信を頂けるとは思っておらず、飛び上がるほど嬉しかったと同時に
布袋さん直々に
「君のやっている仕事は素晴らしい仕事だ。誇りを持って前向きに頑張ってほしい。」
と言われた事は
あれから約18年ブレずにずっとこの仕事を続けて来られた一因にもなっているように思います。
そんな人生の一部と化した布袋寅泰さんを聴きながら
これからも誇りを持って前向きに頑張っていきたいと思います。
今回は1万字を越える過去最高文字数になりました。
もし最後まで読んで下さった方がいるとしたら、最高位の感謝を申し上げたいと思います。
令和5年2月1日
田原義彦