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2022/08/21
施設長のつぶやき~夏休みSP The Legend of BOØWYー6年間でトップを取った男たちー~
こんにちは、施設長の田原です。
今日は夏休みSPとして、伝説のロックバンド「BOØWY」の歴史を
語ってみたいと思います。
なお、この記事は私が学生時代に得た情報を基に想像、妄想、脚色を加えていますので
正確の記事ではございません(たぶんに思い出補正が入っています)。
予めご了承下さい。
なおなお、この記事は自宅でほろ酔い気分で書きましたので
文法表現がおかしかったりすると思いますが、ご容赦下さい。
〇序奏
時は1979年、ロックバンドの登竜門と言われた音楽大会EASTWEST。
その群馬県大会で全国大会への切符をかけ
氷室狂介(後に京介に改名)率いる「デスペナルティ」と
布袋寅泰率いる「BLUEFILM」が激突、軍配は僅差でデスペナルティに上がる。
氷室はその後、全国大会でもベストボーカリスト賞を受賞。
鳴り物入りで上京する事となる。
氷室含めメンバー全員はデスペナルティでの活動を希望するものの
事務所からは下されたのは解散宣告。理由は「実力不足」。
大人達にとってほしかったのは氷室一人であり、他のメンバーは不要であった。
結局、少年同然のデスペナルティのメンバーに抗う術はなく解散となる。
氷室は入りたくもないバンド「スピニッヂパワー」のボーカルとして
シングル「ボロー・ボロー・ボロー」でデビューを果たす。
しかし自分の音楽性と全く違う活動に氷室が納得する訳もなく
あっさりスピニッヂパワーを脱退する。同時期、同棲していた彼女も氷室の元を去る。
何もかも失った氷室は夢を諦め、故郷群馬に帰る決断をする。
東京最後の思い出にと、彼女と行く予定だった「RCサクセション」のライブに足を運ぶ。
コーラ片手に席に座りライブを観賞。「スローバラード」を聴いた時に
「俺はあっち側(ステージ)に立つはずだった」と思い直し、ライブ途中で会場を後にする。
頭にあったのは190㎝の長身で踊りながらギターを弾くあの男だった。
同時期、氷室より一学年下の布袋寅泰はクリスチャン系の高校
新島学園を3年生の2月に中退し上京。
中退の理由は卒業式前に長髪を切るように教師に指導されたため。
「イエス様(の髪)はもっと長い」という迷言を残し、学園を後にする。
しかし布袋もまた夢破れ喫茶店でアルバイトをしていた。
正社員にならないかと言われるまで仕事をこなしたが
「自分は喫茶店のマスターになるために上京した訳ではない」と思い始めていた。
そんな折に氷室から連絡があった。
布袋は群馬県高崎市で1,2位を争う大富豪の息子でいわゆる「お坊ちゃん」。
幼少期からピアノを習い、6歳でオリジナル曲「ありがとう」を発表するなど英才教育を受ける。
中学2年の夏からギターを始めひと夏で全てのコードを弾けるようになるなど
当初より才覚をみせる。
聴いている音楽も洋楽が中心でファッショナブルで洗練された少年だった。
一方、氷室は高崎市で有名な不良。いわゆるオラオラ系で布袋とは対照的な存在だった。
そんな氷室に呼び出された布袋は当初「殴られるのではないか」と戦々恐々としていた。
しかし実際にあってみると群馬県時代と打って変わって洗練された氷室がそこにいた。
「よ、元気??」と気さくに話しかける氷室。
話していくと驚くほどお互いの音楽性が似ている事がわかる。
そんな氷室から「バンドを組まないか」という提案に、布袋は当初思い悩む者の
結局は提案を受け入れる。
氷室と布袋はすぐに曲作りとメンバー集めに奔走する。
まず氷室はデスペナルティのベーシストで同級生の松井恒松(後に常松に改名)を呼ぶ。
氷室に誘われた松井に断る理由はなく快諾。
またそれぞれデスペナルティ、BLUEFILMに在籍してた
ギターの諸星アツシ、サックスの深沢明が加入。
スピニッヂパワー時代、唯一氷室が気に合ったドラムの木村マモルを加え
6人でバンド名「暴威」として活動を開始する。
〇ボウイというバンド名に関して
ボウイというバンド名に決定の経緯は諸説ある。定説はこうだ。
女性マネジャーから「男の子ばっかりだからBOYにしたら」とアドバイスを受ける。
そこでメンバー全員で考えた「BOWY」に布袋が使いたがっていた
「Ø(ファイ・空集合・何物にも属さないの意)」を真ん中に入れてBOØWYとした。
この説には氷室はインタビューでこのように答えている。
「BOOWYじゃ皆、ブーイって読んじゃうから真ん中に斜線を入れた」と。
しかしいずれにせよ、上記説では当初は「暴威」という漢字表記だった説明がつかない。
この漢字表記にも諸説ある。
一番有力な説はデビット・ボウイが来日した際の和名「出火吐・暴威」からとったというもの。
しかしこの説に関しても氷室はインタビューで「暴力の威力なんてカッコイイじゃん」
と話している。
結局のところ真相は不明であり
何よりメンバー自身がはっきりわかっていないのではないだろうか。
若い時に皆でワイワイ言いながら決めた事に正確なプロセスを求める事の方が異常な事だ。
過程がどうであれ結果的には「Ø」の名のごとく
彼らは何物にも属さないビックバンドに成長していく事となる。
〇BOØWY初期
メンバーはあっという間にアルバム「MORAL」を制作する。
しかしタイトルチューンであるMORALの歌詞「人の不幸は大好きサ」のイメージが悪い
という理由からなかなか発売の目途が立たない。
そんな状況に苛立ちが募るメンバーは、その怒りをライブにぶつけていく事となる。
結果的にこの時期のライブ活動がライブバンドとして一世を風靡する原動力になって行く事は
皮肉にも嬉しい誤算だった。
そんな折、ついに発売されたファーストアルバムMORAL。
しかしMORALは今から聴けばBOØWYのアルバムの中では異色の一枚となっている。
社会批判の歌詞も多く、サラリーマン人生を揶揄した「ELITE」
学校や教師を批判した「SCHOOL OUT」など
後の彼らのイメージからはかけ離れた楽曲も多い。
しかしそれでもこのアルバムですでに最後の最後まで演奏され続ける事になる
「IMAGEDOWN」「No New York」「On My Beat」が収録されている事には驚くばかりだ。
そしてMORAL発表後メンバーの元に一通のファンレターが届いた事で
事態は大きく動き出す事になる。
そのファンレターにはこう記されていた。「SCHOOL OUTを聴いて学校を辞めました」。
メンバーからすれば何もそのような事を伝えたい訳ではなかった。
青少年時代は誰しも一度は経験する社会、大人への反抗。
理由なき反抗。反抗のための反抗といった事か。
しかしメンバーはただ今の怒りをそのまま楽曲にぶつけただけで
何も反抗の船頭を切りたい訳ではなかった。
「なんか違うよな。これは俺たちが伝えたい音楽じゃねーな」。
ここで布袋を中心に音楽性の変更を模索する。
メロディアスな曲にラブソングの歌詞を載せた楽曲
いわゆるBOØWYの誕生である。
しかしこの音楽性の変更にどうしても納得が出来なかった深沢と諸星が脱退を表明。
同時期、プロデューサー志向の強かった木村も脱退。
新たにオーディションで選んだドラムの高橋まことを加え、4人で活動を行なっていく事となる。
これによりBOØWYはボーカル、ギター、ベース、ドラムというロックバンドの最小編成
いわゆる3ピースバンド(ボーカルを加え4ピースとも)に落ち着く事となる。
写真左から布袋・高橋・松井・氷室
続くセカンドアルバム「INSTANT LOVE」を発表。
前作MORALとは打って変わって前述の通り
メロディアスな曲にラブソングの歌詞を載せた楽曲が
中心となる(一部、TEENAGE EMOTIONとLONDON GAMEにMORALらしさが残る)。
ボーカルもMORALでは荒々しく時にひょうきんな歌唱方法をとっていたが
本作では力強くも繊細で何よりセクシーな歌唱法である。
以後、数百万人の人々を魅了する氷室ボイスの誕生である。
この方向性の変更をよく言えばさりげなく、悪く言えばなし崩し的に変更できるほど
BOØWYのメンバー、特にリーダーである氷室は器用な男ではなかった。
そこでメンバーは「BEATEMOTION 新宿ロフト2DAYS~すべてはけじめをつけてから~」
を敢行する。
1日目はMORALの曲を中心に奇抜なメイクと衣装
2日目はINSTANT LOVEの曲を中心に綺麗で洗練されたメイクと衣装でライブを行う。
つまり暴威DAYとBOØWY DAY。
まさに自らが生み出した「暴威」に対するさよならであり
新しいBOØWYのお披露目会であった。
ここからメンバーとファンは一体となりBOØWYとして突き進んでいく事となる。
また同時期、氷室は狂介から京介に改名している。
理由は京都で占いをして貰ったところ、「狂」という字は絶対に使ってはいけないと
いわれたからだそうだ。
氷室という信念の塊のような男が占いに影響を受けるというエピソードは興味深い。
〇BOØWY中期
バンドの音楽性も決まり、いよいよ3枚目のアルバム制作に取り掛かる事になる。
ここでメンバーはよりプロとして腕を上げる道を選ぶ。
これまでプロデュースは布袋が行なっていたが、本作では佐久間正英氏にプロデュースを依頼。
布袋は佐久間の元で本格的にプロデュースを学ぶ事となる。
後に佐久間に当時のメンバーの才能を聞いたところ
「布袋君の力が抜きん出ていましたよ。松井君にはだいぶ練習して貰いましたが」
と答えている。
こうして完成したサードアルバムはまさにバンドの音楽性を決定づけた一枚となり
タイトルもバンド名を関した「BOØWY」に決定。
先行シングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」に加え
BOØWYを代表する名曲、Dreamin’やCLOUDY HEART
MORALに収録されていたNo New Yorkが大幅にアレンジされ再収録されている。
こうしたBOØWYを象徴する楽曲が収録される一方
氷室がデスペナルティ時代に創った「CHU‐RU‐LU」や
非常に氷室の音楽性っぽい「黒のラプソディ」「唇にジェラシー」が収録されている。
(後に氷室は唇にジェラシーも自身の代表曲と言っている)。
またBOØWY Y史上唯一布袋ボーカルの「DANCE CRAZE」も収録されており
こちらは全英語詞に特徴的なリフレインとまさに布袋がソロデビューする
GUITARHYTHMの原型ともいえる曲になっている。
さらに当時のギターキッズを魅了し今でもエレキギター・リフの登竜門と言える
「BAD FEELING」が収録されている事も歴史に残るアルバムといえる。
BOØWYを代表する曲たちと批判覚悟で表現すれば「氷室っぽい曲」「布袋っぽい曲」が
収録されたバラエティにとんだアルバムとなった。
この頃よりライブ動員数が倍々ゲームで増えていく。
十数人が数十人に、数十人が数百人に、数百人が数千人に…そう時間はかからなかった。
自分たちの代表曲が完成し、BOØWYは4枚目のアルバム制作に取り掛かる。
本作ではプロデュースを再び布袋が務め佐久間はアドバイスをするのみなった。
そんな中で完成した4枚目のアルバム「JUST A HERO」。
先行シングルで代表曲の一つ「わがままジュリエット」を擁するこのアルバムは
まさにBOØWYの完成形といえた。
前作には氷室っぽさ、布袋っぽさがあったが、本作では全てがBOØWY。
この完成度の高いアルバムをひっさげたツアーファイナルで
ついにBOØWYは武道館公演を果たす。
「ライブハウス武道館へようこそ!!」。
あまりにも有名な氷室の名言。彼らにとっては武道館さえもライブハウスと変わらない。
あの日十数人の前で行なったライブ。今は1万人単位にまで増えた。
しかし自分たちはあの時の自分たちと何も変わっていない、
そしてこれからも何も変わらない…
少なくともこの瞬間はメンバー全員がそう思っていたに違いない。
しかしこのアルバムの完成度の高さが皮肉にも「あの日」に向けて走り出してしまう。
〇BOØWY後期
もともとメンバーは「トップをとったらやめよう」と冗談交じりに言っていた。
どこまで本気でどこまで冗談かは当人しかわからない。
しかしこの時点少なくとも一人だけは本気でその事を考えていた。
JUST A HEROの完成度、そしてヒットチャートに名を連ねた事に満足した彼らは
ついに本気でヒットチャートの1位を取りにいく。
そうして完成した5枚目となるアルバム「BEAT EMOTION」。
説明不要の名曲「B・BLUE」「ONLY YOU」を含めたこのアルバムは
JUST A HEROを超える最高傑作となりオリコン1位を獲得する。
すべてにけじめをつけてから方向転換しここまで走ってきた。
あの日のライブと同じタイトルを名付けたのも彼らにとっては
このアルバムこそがBOØWYの終着点だったのかもしれない…
BOØWYはまぎれもなくトップバンドに上り詰めた。これからどう活動していくのか。
これ以上の作品を創り出す事が出来るのか。惰性で進めるほど甘いバンドではない。
BEAT EMOTIONをひっさげたROCK‘N’ ROLL CIRCUS TOUR中
メンバーは真剣に今後の事を考え話し合いがもたれた。
結論は先送りとなりとりあえずもう一枚アルバムを出す事のみが決定された。
翌1987年、シングル「MARIONETTE」をリリース。
もはや当然のようにオリコンチャート1位を獲得する。
ついこの前までいくら武道館を埋めようが、オリコンチャートに名を連ねようが、
あくまで一部の人しかBOØWYを知らなかった。
しかし今や日本でBOØWYを知らない人などいない。
BOØWYのスタイルを真似るバンドも数多く出て来た。目指す側から目指される側へ。
それでは自分たちはいったい何を目指せばよいのか。
そんな中、BOØWYはある伝説的なライブを敢行する。
これまでのMORALやINSTANT LOVEの曲も網羅した
4時間を超えるライブ「CASE OF BOØWY」。
4時間寸分も狂わないリズム隊、4時間止まることなく踊りながらプレイするギター、
そして4時間全く衰えない声量のボーカル。
CDの売上やライブ動員数だけではない。ライブバンドとして
圧倒的なパフォーマンスを魅せる彼らは、
誰がなんと言おうと日本で一番カッコイイバンドとなっていた。
同年、6枚目のアルバムとなる「PSYCHOPATH」をリリース。
シングルカットとして「季節が君だけを変える」をリリース
そのCWには名曲「CLOUDY HEART」が選ばれた。
さらにPSYCHOPATHをひっさげたツアーも発表される。
ここで一つの噂が全国をかけめぐる。
CASE OF BOØWYという伝説的なライブを敢行したこと
NEWアルバム、シングルとも意味深なタイトルであること
CWのCLOUDY HEARTのサビ
「いつも一緒 何をするにも二人(アイツ)だった
あんな日はもう二度とこないような気がして」
を氷室と布袋が一緒に歌っていること
さらにツアー最終公演が12月24日渋谷公会堂であること
(12月24日渋谷公会堂は布袋が山下久美子との結婚を発表した場)。
解散するのではないか…12月24日渋谷公会堂で解散宣言があるのではないか…
SNSはおろかインターネットすらない時代に雑誌や伝聞で噂は一気に全国に伝わる。
そして運命の「1224」を迎える。
〇終幕へ
その日もいつ通りにライブが始まる。1曲目「LIAR GIRL」から圧巻の
パフォーマンスを魅せる。
続く「ANGEL PASSED CHILDREN」で早くも会場は最高潮に見える。
このパフォーマンで駆け付けたファンたちは解散などただの噂話だったと思った事は
想像に難くない。
これだけのバンドが今日解散する訳がない。
しかしそんなファンの思いとは裏腹に残酷にも時は過ぎていく…
迎えたアンコール。会場に姿を見せるBOØWYの4人…大歓声で迎えるファンたち…
ここで氷室は静かにファンたちに語り掛ける…
「今日は皆にちょっと言わなきゃいけない事がひとつあって…6年間…6年間 BOØWY を
やってきました。誰が何と言おうと日本で一番カッコイイバンドだったと思います。」
日本で一番カッコイイバンドという言葉に歓声を浴びせるファン
一方“だった”という過去形に敏感に反応し悲鳴を上げるファン。
歓声と悲鳴が交錯する異常な会場。
ファンが投げいれた花束を肩に乗せ、何度も何度も布袋を見る氷室。
しかし布袋は一切目を合わせない。
記者会見やインタビュー、今でいうYoutubeなどの発表ではない。
6年間活動を共にした仲間たち、そして最愛のファンの前で言わなければならない。
あまりにも辛く重い…
しかしこればかりはBOØWYを結成したリーダーである氷室にしか出来ない事だ。
氷室は続ける。
「高橋まことと…松井恒松と…布袋寅泰と…氷室京介が…
4人が思いっきり4人で出来るる音楽を6年間やってきました。
これから、ひとりひとりが、ひとりひとりのために
今まで4人でしかできなかった音楽をやってきたように…
ひとりひとりこれからやっていこうと思います。」
歓声は一気に悲鳴に一色に変わる。
“解散”というキーワードを封じた解散宣言。
決して後ろを向くわけではない。
ひとりひとりの未来のためにこの選択をした。
そんな氷室のメッセージ。
氷室は絞り出すように叫ぶ。
「フォークのバンドじゃねーんだからジメっとすんのは似合わねーとおもうから!!
最後にビシっと贈るぜ!Dreamin’!!」
いつも通り“Oh!Yaeh!I‘m only Dreamin’…”の大合唱。
しかしいつもと明らかに違う。
夢も希望もない悲しいDreamin’だった…
翌日メンバーが自費で買い取った新聞の見出しにこう記された
「最後のGIGは必ずプレゼントします」
〇同窓会
涙の解散宣言、チープな表現であるがそれ以上の表現しかないくらいのクリスマス・イブ。
ファンにとってせめても救いだったのかは今となっては知る由もないが
最後のGIGSをプレゼントするという知らせ。
どんなGIGになるのか。会場はどこか。CASE OF BOØWYのような伝説的なGIGになるのか、
再び渋谷公会堂か、それともライブハウス武道館か。
きっと色々な想像がファンたちを駆け巡った事だろう。
しかし同じ事を2度するような彼らではない。
選ばれた場所は、完成したばかりの東京ドーム。しかも2夜連続2DAYSの敢行。
そんなにチケットが受ける訳ないとあざ笑う大人たちを後目に発売されたチケットは
わずか10分でソールドアウト。東京都の電話回線をパンクさせる事態を起こす。
1988年4月4日、5日ついに最後のGIG、その名も「LAST GIGS」が開幕する。
絶望を味わった昨年のクリスマス・イブ。それから僅か4か月後の出来事だ。
そこにはメンバー、ファン全てが笑顔に満ち溢れていた。
メンバーいわく「解散はあくまで12月24日。LAST GIGSは同窓会みたいなもん」だそうだ。
最後の最後までライブバンドとして圧倒的な姿を魅せる。
十数人を相手にしても、1万人を相手にしても、5万人を相手にしても、今日が最後だったとしても
何も変わらない。
「Ø」に導かれるように何者にも属さない、何者にも真似できない。
そんな輝かしいロックバンド。
しかし「クレイジーギター布袋寅泰!」「渋い男です、松井恒松!」
「原子のドラム高橋まこと!」「そして俺が氷室京介だ!」
そんなメンバー紹介をもう言う事も聴く事も出来ない。
幾ばくかの寂しさを胸に圧倒的パフォーマンスで2日間を駆け抜けるBOØWYの4人と
それを見送るファンたち。
公演2日目、アンコールの時氷室は高々にこう叫ぶ。
「まだまだ俺達、伝説になんかなんねーぞ!!」
それから数十年後、彼らは伝説のロックバンドとして多くの人に語り継がれていく…
〇あとがき BOØWYというレガシー
今回は夏休みSPとして伝説のロックバンドBOØWYを自分の記憶を頼りに振り返ってみました。
当たり前ですが私(田原)はBOØWYをリアルタイムで経験していません。
だってBOØWYがデビューした時、私は1歳で解散が7歳の時でしたから。
その当時は姉と光GENJIに夢中でした(笑)
我々の世代はちょうど中学、高校の頃に氷室さんや布袋さんがヒットチャートの常連で
まず氷室さんや布袋さんのファンになり、そこからBOØWYやCOMPLEXに
戻っていった世代です。
そんな氷室さん、布袋さんブームに乗っかる形(?)で
高校から大学時代にかけて物凄いBOØWYブームがあったと記憶しています。
私はこれを勝手に第2次BOØWYブームと呼んでいます。
数々のCDが再販されたり、映像化されていなかった渋谷公会堂の解散ライブ(1224)や
LAST GIGSがDVD化されたりしたのもこの頃だったと思います。
ちょうどインターネットが普及しだした頃でしたが
それでも今に比べればまだ情報が入りにくい時代。
テレビをくまなくチェックしたり、雑誌のほんの少しの記事を集めたりして
BOØWYがどんなバンドだったのかを調べていました。
今回は主に大学時代に集めた記憶を頼りに今回のブログを書きました。
冒頭で述べましたが正直正確さには自信はありません。
インターネットで調べればもっと正確で詳しい記事がいくらでも出てくると思います。
しかしあえて今回はそういう事をせずに自分の中の記憶と
そしてちょっと物書きみたいなものを気取って
色んな想像、妄想、脚色を含めて書いてみました。
だからくどいようですが正確な歴史ではないと思いますし
万が一何かの検索でひっかかって、もっと凄いBOØWYファンの方がこれを読んでも
「全然違うじゃねーか」と怒らないで頂きたいと思います。
今でもBOØWYのCDはウォーキングや通勤途中に聴きます。
しかしインターネットで新しい情報も得ませんし
未公開映像と称した映像作品が発売されても購入していません。
私が一番BOØWYを追いかけていたのは10代後半から20代前半です。
大学生の頃が一番夢中だったと思います。
この年齢はちょうどBOØWYがリアルタイムで活動していた時のファンの
年齢層と同じと思います。
私にとってのBOØWYは学生時代の輝かしい思い出なのです。
今更新しい情報や映像を上乗せしたくありません。
別に昔のバンドだ、過去の事だとか揶揄する気持ちはありません。
だからもちろん、学生時代以降に知った情報もあります。
本文では書きませんでしたが、「史実」ではROCK‘N’ ROLL CIRCUS TOUR中
すでに正式に解散は決まってこと、解散の原因となったある出来事などの情報もあります。
しかし今それをここで語り過去を穿るようなマネをはしたくないという思いがあったので
本文では触れませんでした。
BOØWYはメンバー4人のレガシーであり
また私の楽しかった学生時代のレガシーとも(勝手に)思っています。
学生時代、1224を観ながら涙した後に笑顔でバンビーナを弾く布袋さんを観て
「あー結局解散して良かったんだな~」とか思っていた事を思い出しました。
そんなこんなでリアルタイムの布袋ファンは
布袋さんの次回作やライブを楽しみにしていたいと思います。
しかしもし万が一BOØWYが再結成するなんて事になったら…
絶対必死にチケットを取ろうとするだろうなぁ。
まぁその時はBOØWYのリアルタイムのファンということで…
令和4年8月21日
田原義彦